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地図のお話
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 地図のお話 目次


タ  イ  ト  ル
第123回   「歴史のみちを歩こう」   第二十二回
 -近世(江戸時代)のみち 「棚倉街道その2」  額田宿 ~ 太田宿 ~ 町屋宿へ-
第122回   「歴史のみちを歩こう」   第二十一回
 -近世(江戸時代)のみち 「棚倉街道」 水戸宿(上市、下市)~青柳、枝川~額田宿へ-
第121回   「歴史のみちを歩こう」   第二十回
 -近代(江戸時代)のみち「日光街道」  栗橋宿~中田宿~古河宿~野木宿へ-
 第120回   「歴史のみちを歩こう」   第十九回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その7・川尻(十王坂)~愛宕宿~安良川宿へ-
 第119回   「歴史のみちを歩こう」   第十八回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その6・田尻~小木津宿~川尻~十王坂へ-
 第118回  「歴史のみちを歩こう」   第十七回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その5・助川宿へ(日立)
 第117回   「歴史のみちを歩こう」   第十六回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その4・大沼宿~孫宿へ)
 第116回  「歴史のみちを歩こう」   第十五回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その3・佐和宿~森山宿へ)
第115回  「歴史のみちを歩こう」   第十四回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その2・水戸宿~佐和宿へ)
第114回  「歴史のみちを歩こう」   第十三回
 -近代(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その1・高萩宿~勿来へ)
第113回   「歴史のみちを歩こう」   第十二回
 -近代(江戸時代)のみち「水戸街道」(その7・堅倉(片倉)宿~長岡宿へ)
第112回   「歴史のみちを歩こう」   第十一回
 -近代(江戸時代)のみち「水戸街道」(その6・府中(石岡)~堅倉(片倉宿へ)
第111回   「歴史のみちを歩こう」    第十回
 -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その5・稲吉宿~石岡宿へ) -
第110回   「歴史のみちを歩こう」    第九回
 -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その4・土浦宿~中貫宿へ) -
第109回    「歴史のみちを歩こう」    第八回
 -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その3・牛久宿~土浦宿へ) -
第108回   「歴史のみちを歩こう」    第七回
 -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その2・取手宿~若柴宿へ) -
第107回   「歴史のみちを歩こう」    第六回
 -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その1・長岡宿~水戸宿へ)-
第106回   「歴史のみちを歩こう」    第五回
 -中世のみち「鎌倉街道」(その5・阿見町、牛久市、龍ヶ崎市へ)-
第105回   「歴史のみちを歩こう」    第四回
 -中世のみち「鎌倉街道」(その4・土浦市南部)-
第104回   「歴史のみちを歩こう」    第三回
 -中世のみち「鎌倉街道」(その3・かすみがうら市~石岡市へ)-
第103回   「歴史のみちを歩こう」    第二回
 -中世のみち「鎌倉街道」(その2・利根町)-
第102回   「歴史のみちを歩こう」    第一回
 -中世のみち「鎌倉街道」(その1)-



          「歴史のみちを歩こう」  第1回       (第102回)
                -中世のみち「鎌倉街道」(その1)- 


 古くから文物や人々の交流の舞台となってきた古道や運河などの「歴史のみち」は、我が国の歴史を理解する上で、極めて重要な意味を持つものです。しかし、部分的に指定されている史跡等を除くと、これまでの開発などによって急速に変貌し失われつつあります。

 このため、茨城県では、平成22年度~平成26年度の5年をかけ、歴史の道とそれに沿う歴史的遺産(例:古東海道、鎌倉街道、鹿島参詣道、水戸街道、霞ヶ浦・利根川水運など)を調査し、中間報告書の作成や調査報告会の開催等を通じてその成果を紹介しています。

 この度、私の自宅近くにある「上高津貝塚ふるさと歴史の広場」(土浦市)の企画展(平成29年10月14日~12月3日)で「中世のみち 鎌倉街道」が開かれたので、「歴史のみちを歩こう」をテーマに茨城県下の歴史の道を探ってみたいと考えてみました。

 「中世のみち 鎌倉街道」は、「いざ鎌倉!」のことわざにもなっている通り、鎌倉幕府に緊急事態が発生すると、近隣の武士に出兵要請が発せられたことにより、鎌倉への街道が開かれました。茨城県下においても、かつての常陸の国府「石岡」から鎌倉への道が整備されました。

 今回の第1回は、この企画展で紹介された「土浦市の鎌倉街道」の痕跡について紹介します。

◎土浦市南部の鎌倉街道  
土浦市内には、水戸街道以前の南北方向の道の伝承があり、その一部が土浦市指定文化財「旧鎌倉街道」として昭和45年7月13日に史跡第15号に指定されています。市南部の鎌倉街道は、阿見町荒川本郷から荒川沖東・中村西根・永国・天川・上高津周辺から桜川を渡河したと想定さています。

◎土浦市北部の鎌倉街道   図参照
 土浦市北部の鎌倉街道は、桜川を渡り八幡神社(田中町)付近から、土浦二高西側の旧五社明神、真鍋の鎌倉坂、木田余へと北上し、中貫・神立境から常陸府中(石岡市)方向へ向かいます。このほかにも、東西方向の鎌倉街道が市の北西部に伝えられています。路線上の風景は、昭和50年代以降の急速な都市化に伴って、田園や森林等が少なくなっています。

 土浦へお越しの折は是非一度歩いてみてください。

*第20回企画展「中世のみち 鎌倉街道」:上高津貝塚ふるさと歴史の広場 参照
      

  
 鎌倉坂(土浦市・真鍋小学校裏手)   
     
      土浦市北部の鎌倉街道(2万5千分1地形図縮図)


八幡神社(土浦市・田中町、市内有数の古社 1152年創建)
  
      
 (堀野正勝 記)




          「歴史のみちを歩こう」  第2回       (第103回)
                -中世のみち「鎌倉街道」(その2・利根町)-
 


 中世のみち「鎌倉街道」は、「いざ鎌倉!」のことわざにもなっている通り、鎌倉幕府に緊急事態が発生すると、近隣の武士に出兵要請が発せられ、これを端緒に鎌倉への街道が開かれました。茨城県下においても、鎌倉街道は、軍事のみならず物資の輸送や人の往来のため、かつての常陸国府「石岡」から鎌倉への道が整備されました。

◎利根町の鎌倉街道
利根町の鎌倉街道は、石岡→土浦→阿見→龍ヶ崎→布川(利根町)を経て、下総国府(現在の千葉県市川市)へと通じ、最終的には鎌倉へ至る「下の道」(当時、鎌倉街道には主道が上(うえ)、中(なか)、下(しも)の3つあった)の一部と考えられます。

 ところで、江戸時代の水戸街道もJR常磐線も現在の国道6号線にほぼ近いルートを辿っています。千葉県我孫子市から茨城県取手市へ利根川を渡るルートです。現在の国道6号線のルートから見ると、鎌倉街道は、利根町の布川を経由するのは遠回りするように見えませんか?

 中世以前には、府川周辺のあたりまで「香取の海」と呼ばれる内海が入り込んだ湿地帯であったことを考えれば、舟運を使って河川や湿地帯を通過するのは意外と都合が良かったのではないかと思います。当時は、利根川の位置も東にずれていたことなどから、地形的にも現在とは相当違っていたのではと考えられます。

 図-1に示す「布川→大平→大平船着場→奥山→押戸船着場」利根町の鎌倉街道は、まさに船で物資を運ぶ、そんなルートを示しています。近年、県・町等の調査(歴史の道調査事業等)で確認された利根町内の古道(鎌倉街道)は、町指定の史跡に指定されました(図-2参照)。中世の人々が歩いたと思われる古道を是非歩いてみてください(写真-1)
     
          
              図ー1利根町の鎌倉街道(推定も含む)※2万5千分1地形図を縮図
   
            図ー2 利根町指定史跡の鎌倉街道
         (実線部分は保存状態が良好。利根町HPより)
     
    写真ー1ひっそりと残る古道
      (奥山の鎌倉街道)
 (堀野正勝 記)



          「歴史のみちを歩こう」  第3回       (第104回)
          -中世のみち「鎌倉街道」(その3・かすみがうら市~石岡市へ)-
 


 中世のみち「鎌倉街道」の第3弾は、かすみがうら市から石岡市への道を辿ってみました。かすみがうら市域に想定される鎌倉街道のルートは、茨城県の平成25年(2013)度の歴史の道調査事業(第1回)で確認調査が行われています。このルートは、常陸の国府(現石岡市)へ接続するルートで、旧千代田村史にも掲載されています。

 コースは、古代東海道(畿内-伊勢-尾張-駿河-伊豆-甲斐-武蔵-上総-下総-上総-常陸)とほぼ重複しており、江戸時代に整備された有名な東海道(江戸~京都を結ぶ東海道五十三次)よりずっと昔、律令制時代(今から1300年以前)から主要国を結ぶ道として整備された「古道七街道」の一つです。当時は東北、北海道は対象に入っていませんでした。

 常陸國は、上総國や上野國とともに大国として、重要な国であったものと思われます。

◎かすみがうら市~石岡市へと続く鎌倉街道(古代東海道)
 土浦市板谷の鎌倉切通しをスタート地点として、稲吉を経て石岡(国府跡)へと、北東方向へほぼ一直線に鎌倉街道(古代東海道)が整備されたことが見えてきました。その推定ルートは、最新の地形図(地理院地図)、旧版地図(地形図、迅速図)、空中写真(米軍空中写真)等を活用し判読し、予察的資料を作成しました。その資料を現地に持参し、古老の話を聞き取り、現地踏査を行った結果、以下のような推定路としてまとめてみました。

① ルート1(新たな推定路「下稲吉切通し(仮称)」を含む)
 土浦市・鎌倉切通し⇒東中貫町(土浦千代田工業団地)⇒かすみがうら市・下稲吉(道祖神あり)⇒下稲吉切通し(養豚場南東部)⇒二子塚古墳群(道標、庚申塔、二十三夜塔あり、途中道標あり)⇒愛宕神社(鳥居三基あり)⇒新治地区(道標あり)⇒西野寺地区(胎安(たやす)神社・二十三夜尊あり)⇒東野寺地区(子安神社・道標あり)⇒恋瀬川(二十三夜尊あり)⇒石岡(常陸国府跡)へと続きます。

② ルート2(従来からの推定路)
 土浦市・鎌倉切通し⇒北神立町(東レ土浦工場)⇒稲吉南三丁目⇒笄(こうがい)崎(カスミ裏)⇒江後田地区(わかぐり運動公園東側を通過、厳島神社、五輪塔、祠、道標あり)⇒二子塚古墳群(①のルート)へと繋がります。
*「笄崎」(平安末期頃からの地名)という名に引き寄せられたルート選定

 笄は、昔、主に女性が髪を止めるのに使ったかんざしや櫛のようなものです。笄と聞いて思い出すのが、日本武尊が東京湾を渡った時に海が荒れて、妻(弟橘姫)が入水し波を鎮めたという話です。この笄が流れ着いたところが笄崎と名前が付いているようです。

 かすみがうら市・笄崎は霞ヶ浦に面してはおりませんが、如何にも鎌倉街道(古代東海道)に縁のありそうな地名だとは思いませんか?現在も江後田地区への入り口となっています。
     

 
    国土地理院 2万5千分1地形図に加筆・縮図
      
   
       写真-1 下稲吉切通し(仮称)
           
     
    写真-2 二子塚古墳群(道標・庚申塚)
 (堀野正勝 記)



          「歴史のみちを歩こう」  第4回       (第105回)
          -中世のみち「鎌倉街道」(その4・土浦市南部)- 


 中世のみち「鎌倉街道」の第4弾は、第1回で簡単に紹介した土浦市南部の荒川沖駅付近、中村西根、永国、天川、上高津(高井城址)周辺から桜川を渡河したと考えられるコースについて改めて紹介します。
 このコースは、自宅の近くということもあり、普段ちょくちょく歩いていたエリアですが、改めて丁寧に調査してみると、旧鎌倉街道の痕跡がかなり残っていることに気付きましたので、そのポイントを紹介します。

 土浦市摩利山の「日先(ひのさき)神社」は次のように伝えられています。鎌倉幕府創生以前の天喜五年(1057)源頼義、義家親子の軍団が奥州へ向かう途中、当地へ宿営し、この地で賊徒平定を祈願しました。翌康平元年(1058)11月に社殿を創建し、丸四天権現宮と命名、何時しか摩利支天さまと呼ばれるようになりました。明治四年(1871)、日光神社と改称後に日先神社と改め、明治五年(1872)右籾、摩利山新田、中村、中村西根、乙戸、荒川沖、荒川本郷、沖新田、以上八ケ村の村社となりました。

 荒川沖東側ルートの中村東三丁目の水戸街道(旧国道6号)と鎌倉街道の交差点には、「日先大神道」と刻まれた道標(明治五年設置)とその傍らに小さな地蔵尊(右いちのやと刻印)があります。また、荒川沖西側ルート沿いには、天平~天平神護年間(729~767年)創建と伝わる「姫宮神社」があります。現在の社殿は昭和60年(1985)に再建したものです。
 鎌倉街道の通る中村西根集落には、屋敷の周囲に高い生垣をめぐらせた農家が多くみられます。筑波おろしの季節風を遮るとともに、火災の類焼を防ぐためのもので、風土が生んだ生活の知恵と言えるものです。道端には各所に道祖神が見られ、周囲の畑地からは筑波山も良く見えます。美しい高垣の集落景観は是非一度は尋ねてみたいところです。

 花室川に架かる源兵衛橋から宮脇庚申塚群(安永五年(1776)の十九夜塔や青面金剛石塔、庚申塔など7基の石塔あり、写真-2)、大杉神社(中世の五輪塔、石仏多数あり)、高井城址(南北朝時代の古舘、鹿島神社裏手には中世末期の宝篋印塔・伝六騎塚あり)を経て桜川を渡河し真鍋の台地へ続くルートがメインルートです。

 土浦市永国台では、宅地造成に伴い中世の道路遺構として「鎌倉街道の発掘調査」が行われ、それまで伝承とされていた道が、硬化面、側溝、掘り込み事業などの痕跡が見つかったことから、まさに「鎌倉街道」であるとされました。発掘調査地点の北側には、鬱蒼とした森の中に幅4m程度の道(古道と表示した部分)が現在も残されています(写真-1)。
荒川沖から上高津(高井城址)までのメインルートは、是非一度歩いてみてください。

 一方、西根集落入り口で分岐した西ルートは、土浦市下広岡(鹿島神社あり)を経由して宍塚の般若寺を目指す鎌倉街道となっています(途中、「鎌倉街道」の表示も見られますが、支線と推定し、破線としましたが道はしっかりしています)。

 般若寺は天歴元年(947)創建と伝えられ、境内には、国宝の銅鐘(建治元年(1275)、鎌倉・長谷の大仏を鋳造した者の作)をはじめ、結界石、石造五輪塔、石造燈籠があります。また、近くには佐野子の石造五輪塔(室町中期、高さ2,65cm)もあります。途中、国指定史跡の「上高津貝塚」があります。

 一見の価値がありますので、是非お立ち寄りください。

     

 
    国土地理院 2万5千分1地形図に加筆・縮図
      
   
 写真-1 鬱蒼とした森の中の鎌倉街道(古道)
           
     
            写真-2 宮脇庚申塚群
 (堀野正勝 記)


          「歴史のみちを歩こう」  第5回       (第106回)
          -中世のみち「鎌倉街道」(その5・阿見町、牛久市、龍ヶ崎市へ)- 


中世のみち「鎌倉街道」の第5弾は、茨城県内の主要な鎌倉街道の残り、土浦市荒川沖から阿見町、牛久市を経て龍ヶ崎市へと抜けるルートを辿ってみたいと思います。そして、茨城県内の鎌倉街道のまとめとして、石岡市から利根町までのルートを20万分1地勢図に一覧します。

土浦市荒川沖付近のルートには、火伏地蔵尊や地蔵尊、馬頭観世音などが見られます。写真は、荒川沖の地蔵尊と馬頭観音です。また、阿見町荒川本郷や、牛久市内の鎌倉街道沿いには、多くの鹿島神社や古刹がありその面影を残しています(25千分1地形図参照)

荒川本郷集落には、古くから「本郷の大六天(欲望の最高位にある仏)」伝説があり、祠にしめ縄を張って祀るという習慣が残っています。「大字荒川本郷字大六天」の地名と乙戸川に架かる「大六天橋」にその名を残しています。本郷の大六天も鎌倉街道(現在の中根~上本郷)に沿って、眼下に乙戸川を望む常陸台地の上にあったと考えられます。このあたりの集落にある神社(大半は鹿島神社)には、しめ縄を張った祠が数多く見られます
(写真参照)

荒川沖付近で2ないし3つのルートに分かれた鎌倉街道は、阿見町荒川本郷(鹿島神社付近)で合流し、乙戸川を渡河した後、台地の上を一路南下し、牛久市(岡見町)へと入ります。更に南東方向へと常陸台地上を進み、龍ヶ崎市島田付近でルートを南に転進し、小野川を渡河し龍ヶ崎市大塚町の台地へと進みます。

龍ヶ崎市半田町(医王山満願寺)を経て同市八代町(富士浅間神社)へ至り、龍ケ崎市内を経て利根町押戸へと香取の海(旧霞ケ浦の湿地帯)を渡河したものと推察しています。満願寺や長峰神社、八代の富士浅間神社には鎌倉期のものと思われる道祖神や観音菩薩像などが見られます。

牛久市小坂町の国道408沿いの台地上には、戦国時代の城址・小坂城が、発掘整備されています。築城は永禄年間(15561570)と言われ、主郭の周りには土塁と空堀がめぐらされ、小規模ですが技巧的な城館として残されています。近くの鎌倉街道沿いには、熊野神社、八幡神社、大悲山悲眼院などがあり、古い地蔵尊などが祀られています。小坂城址は、最近整備されたもので、戦国時代の城跡の造りが良く分かり、一見の価値があります。
     


      
地 蔵 尊  馬 頭 観 音  鹿島神社としめ縄のかかる祠
( 荒川本郷 ) 
 (堀野正勝 記)


          「歴史のみちを歩こう」  第6回       (第107回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その1・長岡宿~水戸宿へ) - 


 水戸街道は、江戸時代に定められた日本の幹線道路で、五街道に準ずる脇街道の一つです。
 水戸街道は、江戸側の千住宿と水戸藩の城下町である水戸をつなぎ、五街道と同様に道中奉行の管轄に置かれた重要な道でした。本来、街道は行き先の名称を冠したため水戸側では江戸街道と呼ばれていました。

 現在、水戸街道は国道6号の東京都墨田区向島~茨城県水戸市までの愛称です。国道6号に対して「水戸街道」と呼ぶ一方、街道筋が新道・バイパスの開通等により国道6号から外れた部分については「旧水戸街道」として区分することが多いようです。本稿においても、同様の扱いとしました。
 明治時代以降は、水戸街道と岩城街道(水戸以北の呼称で岩城相馬街道、磐城街道とも言う)をまとめて陸前浜街道と呼称するよう通達(明治5年太政官布告)が出されました。明治期から昭和期にかけて作成された旧版地図(国土地理院作成の古い地形図)にはこれらの呼称が見られますので、明治期以降に開かれた新道の可能性もあるので、注意をしよう。

 第1回は、水戸側の終点(江戸へ向かっての起点)水戸宿を中心にその概要を記します。
千住宿から数えて19番目の宿場が長岡宿(東茨城郡茨城町)です。涸沼川の支川(涸沼前川)に架かる長岡橋を渡ると台地にとりつきます。高岡神社に続き、茅葺屋根の立派な家屋・茨城町指定文化財「木村家住宅」が宿場町の面影を残しています。

 長岡宿北縁の長岡十字路を直進し、茨城町東IC先の東野町交差点を左へ、更に次の二股(吉沢の信号)を右へ進むと左側に「熱田神社」が目に入ってきます。周囲には推定100年~150年の大欅や大銀杏があり、如何にも旧街道の風情を残しています。

 国道50号の手前(約300mほど)に、「一里塚」(旧木沢新田(吉田))という集落があり、水戸宿から最初の一里塚で、現在も榎木が植えられ、当時の面影を残しています。

 国道50号を越して500mほど北上すると道は二股(追分には牛馬頭観音あり)となり左側に進むといかにも旧街道を思わせる「枡形」(クランク)が続きます。

「薬王院」には、是非立ち寄りたい。薬王院は、天台宗の祖・最澄(伝教大師)が延暦年間(782~806)に創建したもので、現在の本堂は室町期の建物としても大変素晴らしい寺院で、国の重要文化財に指定されています。樹齢500年の大銀杏も大変見事です。

 街道は、右折しながら水戸宿へ向かって坂道を下っていきます。左側には「吉田神社」の鳥居と石灯篭、石段を上ると大欅(樹齢300年)があり、神社へと続きます。

 道なりに坂を下っていくと、いきなり「備前堀」に架かる「銷魂橋(たまげばし)」の袂に到着、「江戸街道起点」の石標があります。少し進むと「ハミングロード513」の商店街があります。商店街の中ごろの四つ角に「旧本四町目 陸前浜街道起点」の道標が建っています。水戸街道の終点であり、岩沼へ向かう陸前浜街道(磐城街道)の起点と言われています。

今回はここまで。
*なお、旧版地図(明治36年測図、5万分1地形図)には、長岡十字路を左折し、千波湖西縁を通るルートが陸前浜街道(明治期以降か?)となっています。

     

国土地理院 2万5千分1地形図に加筆・縮図
      

江戸街道(水戸街道)起点「
(たまげばし」と備前堀
 

水戸の一里塚 薬王院
 (堀野正勝 記)



          「歴史のみちを歩こう」  第7回       (第108回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その2・取手宿~若柴宿へ) -

 旧水戸街道の第2回は、茨城県内最初の宿場町・取手宿~藤代宿(藤代宿、宮和田宿)~若柴宿にかけてのルート概要を記します。

(取手宿)
 取手宿~若柴宿へのルートは、江戸時代初期の利根川東遷による利根川の付け替えにより整備されました。取手駅近くの高台にある長禅寺は、この折、宿場の形成に伴って現在地へ移転しました(創建は古く、承平元(931)年。旧大鹿村(現在の白山地区、取手競輪場近く)にあった)。長禅寺は風光明媚なところで、小林一茶や小川芋銭などのゆかりの寺です。

 旧水戸街道の取手宿は千住宿から数えて5番目の宿場で、その指定は、他の宿場町より少し遅れて(17世紀後半)指定されました。取手宿は、利根川水運の拠点地・物資集積地として栄え、当時は200軒程の家並みの大規模な宿場町を形成していました。旧取手宿本陣染野家住宅や、新六本店、田中酒造店などが現在にその面影を伝えています。
八坂神社は、寛永三(1626)年創建で、江戸初期から信仰を集める神社です。

(藤代宿)
 千住宿から数えて6番目の宿場が藤代宿です。藤代駅を挟んで西側が藤代宿、東側が宮和田宿で、2宿で1宿の機能を果たしていました。本陣は双方にあり、交代に役目を果たしていました。藤代宿の本陣は、現在の中央公民館の位置にありましたが、昭和30年の町村合併時に役場建設に伴い壊されました。

 藤代駅近くの旧水戸街道に面し愛宕神社があります。
愛宕神社は、寛永十五(1638)年創建で、京都の愛宕神社本社より分祀建立したと伝わっています。宮和田宿の東詰め(小貝川土手下)には、熊野神社が、小貝川を挟んで小貝川右岸側(龍ヶ崎市小通幸谷町)には、観音堂(天慶年間(西暦940年頃)建立)があります。

(若柴宿)
 初期の水戸街道は、我孫子から利根川に沿って布佐まで下り、利根川を渡って布川、須藤堀、紅葉内の一里塚を辿って若柴宿に至る街道(布川道)と、取手宿、藤代宿を経て小貝川を渡り小通幸谷、若柴宿に入る道がありました。この二つの道の合流点、現在の馴柴小学校の北東隅の三叉路にこの道標(里程標)が建てられました。三面に水戸十六里、江戸十三里、布川三里と、通ずる方角とそれぞれへの里程が刻まれています。

 牛久沼に面する常陸台地の南西縁に位置する八坂神社から金龍寺までの約500mが若柴宿です。明治以降の火災により江戸時代の建築はほとんど失われていますが、街並みの景観は保たれています。明治期以降、現在の水戸街道は牛久沼湖畔ルートになったのに反し、旧水戸街道は布川道(佐倉街道)を含め牛久沼を避けるルートとなっています。これは、江戸期以前は、牛久沼が今より一回り大きく、周囲が湿地だったことが考えられます。旧版地図からも湖畔周辺の湿地や湿田が読み取れます。

 金龍寺は、元亨元(1321)年に新田義貞によって群馬県に創建された古寺で、天正十八(1590)年、義貞の子孫が牛久に国替えになった折、寺も一緒に移ってきたと伝わっています。
      
旧取手本陣染野家住宅 
が並ぶ取手宿
2軒の老舗(新六本店
田中酒造店)
      若柴宿の面影を残す
       街道筋
 (堀野正勝 記)


 
          「歴史のみちを歩こう」  第8回       (第109回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その3・牛久宿~土浦宿へ) -

 旧水戸街道の第3回は、茨城県内4番目の宿場町・牛久宿~荒川沖宿・中村宿を経て土浦宿にかけてのルート概要を記します。

(牛久宿)
 牛久宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠15軒であったと言われています。牛久宿は、水戸街道のほぼ中央に位置する重要な宿駅でした。

 牛久宿の通りが穏やかに右にカーブするところに正源寺があります。境内には、推定樹齢400年の日本特産のトチノキがあります。山門は、山門と鐘楼が一体化した鐘楼門がありました。山門の前では石造の仁王門が訪れる人々を出迎えてくれます。

 近くには、黒塀を廻らせた旧家(飯島家)の門脇に、明治天皇牛久行在所(あんざいしょ)跡があります。また、牛久沼のほとりで暮らした日本画家、小川芋銭を称えた碑、芋銭河童碑への道などがあります。

(荒川沖宿)
 荒川沖宿は、千住宿から9番目の宿場町で、役人宿1軒、旅籠わずか数件の小さな宿場町でした。宿場町は、現在の荒川沖西にあたり、南北に100mの範囲で広がっていました。前述の通り、小規模な宿場町で、本陣は無く、隣の牛久宿と分担してその役務を行っていました。
正規の宿場町ではありましたが、継ぎの宿という位置づけであったようです。

 旧街道の中間点に、荒川沖派出所があり、その手前に荒川沖天満宮への参道があります。小さな神社ですが、立派な彫刻が彫られています。
 また、郵便局の隣には元旅籠佐野屋のどっしりとした茅葺屋根が目立ちます。もう一軒、商店として使われている鶴町たばこ店の茅葺屋根の建物が残っています。 

(中村宿)
 中村宿は、本陣1軒、脇本陣0軒、旅籠が数件あるだけの小さな宿場でした。中村東の旧道に入るとすぐの交差点右手に「日先大神道」と書かれた大きな碑とその横に小さな地蔵尊があります。地図上には東へ1kmほど行くと「日先神社」があります。
 6号線を跨ぐ辺りに原の前一里塚があったようですが今は何もありません。しばらく進むと右側に水準点(23.8m)があり、その奥の墓地脇に「石仏群」があります。石仏の中にはこけしのようなかわいらしい「双体道祖神」があり、目を引きます。集落右手には、本陣(川村家)跡があります。どうやらこの辺りが「中村宿」の中心のようです。

 花室川を渡るとすぐ左手に大聖寺が現れます。山門は茅葺の薬医門、貞享2年(1685)土浦城主の寄進によるものと伝わっています。大聖寺は、長徳元年(995)の開山というから随分古い歴史のある寺院ですネ。坂道を登り旧6号線(現国道354号線)と合流し土浦宿へ



国土地理院 5万分1地形図に加筆・縮図
    
正源寺の仁王像と鐘楼門 茅葺の佐野家(荒川沖宿) 中村宿の石仏群  
 (堀野正勝 記)



 
          「歴史のみちを歩こう」  第9回       (第110回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その4・土浦宿~中貫宿へ) -

 旧水戸街道のその4は、茨城県内7番目の宿場町・土浦宿~中貫宿にかけてのルート概要を記します。特に土浦宿は、水戸街道の中間地点にあたり、繁栄の跡が偲ばれるとともに、枡形の道や、城址、古い商家群など城下町独特の雰囲気を今に伝えています。

(土浦宿)
 土浦は霞ヶ浦に面し、かつては漁業と舟運で賑わいと繁栄をもたらしましたが反面、水害にも悩まされました。土浦の風土を知る上には、この霞ヶ浦を是非、一目見てください。港の近くには水天宮(天保11年、久留米の水天宮より分霊)が祀られています。

 花室川を渡るとすぐ左手に大聖寺を見ながら坂道を登り旧6号線(現国道354号線)と合流し土浦宿へ向かいます。「国立病院入口」信号の二股を右斜め前に入っていく道が旧水戸街道です。左に曲がる角の右手に「下高津の道標」があります。その左手の石段を登ると茅葺入母屋造りの愛宕神社(享保5年(1720))、その奥に最澄開基と伝わる常福寺(国指定重要文化財・本尊木造薬師如来坐像、平安初期)があります。

 桜川に架かる銭亀橋(市指定史跡)を渡り、「一里塚井戸」を左に見て、高架道路の下を渡ると「市指定史跡南門跡」と城下町独特の「枡形」にかかります。右手に東光寺、その奥に等覚寺(国指定重要文化財・銅鐘、市指定文化財・鐘楼及びクロマツ)があります。

 その先には2番目の枡形があります。いよいよメインの中城通り(旧水戸街道)です。中城通りには、山口薬局、吾妻庵総本店、矢口酒店等土蔵造りの重厚な建物が残っています。さらに進むと「土浦まちかど蔵・野村」、「土浦まちかど蔵・大徳」(江戸中期の建物)が続きます。

 その間には中城天満宮、琴平神社、不動院、「沼尻墨僊の寺子屋跡」などの史跡があります。中城通りの北西側には土浦城(亀城)があります。亀城公園の一角には「土浦市立博物館」もあり、土浦領の境界石や真鍋の道標などが移設展示されています。 
 中城通りと国道125号線の旧桜橋交差点を過ぎ、大塚本陣跡(現商工会議所)、松浦畳表店などの古い建物を見ながら進みます。突き当たりの「鍵の手」を左折し、横町(月読神社あり)に入ります。更に突き当りを右折すると新川手前の「市指定史跡北門跡の碑」に差し掛かります。新川橋を渡ると土浦宿も終わりです。

(中貫宿)
 真鍋の集落を少し行くと真鍋四つ角になります。右の鹿島街道へチョット入ると「善応寺」があります。善応寺には、旅人ののどを潤したであろう「照井の井戸」があり、今も清水が湧き出ています。「柔らかくておいしい水」でした。

 途中、「真鍋宿通り」と書かれた坂道の左手には、連子格子の黒塗りの古い家が3,4軒連なり、旧道の情緒が豊かです。坂を登りきると「土浦一高」があります。「国指定重要文化財・旧土浦中学校本館」(明治37年建築)のゴシック様式の建物は一見の価値があります。しばらく旧6号を北上し、立体交差点手前で国道(125号)を左に分け、右斜め前に入っていきます。

 右手に「市指定史跡水戸街道松並木」と書かれた案内板があり、この辺りから1kmほどに「板谷の松並木」が残っています。少し下り坂になったあたりの左右に「板谷の一里塚」があり、こんもりとした塚が両側に残っているのは大変珍しいと言われています。昔の街道の情緒あふれる心地良い道です。

 国道6号バイパスをオーバーブリッジすると中貫宿の落ち着いた街並みに入ります。左手に茅葺屋根に覆いが被さった民家があり、右手に中貫のエノキの大木(市指定の名木古木)のある鹿島八坂神社があります。中貫宿は、立派な門構えの家が続きます。

 左手に「安穏寺」その斜め向かいに「中貫宿本陣跡」があります。本陣は、元治元年(1864)の天狗党の焼き討ち直後に再建されたものだそうで、立派な門や蔵があり、現在も人が居住していました。母屋の唐破風が大変見事でした。


    
茅葺屋根の愛宕神社(左奥に常福寺の大銀杏 板谷の松並木 中貫宿本陣  
                                                   (堀野正勝 記)
                                                                    





 
          「歴史のみちを歩こう」  第10回       (第111回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その5・稲吉宿~石岡宿へ) -

  旧水戸街道のその5は、茨城県内9番目の宿場町・稲吉宿~石岡宿にかけてのルート概要を記します。
稲吉宿には、水戸街道に残る本陣(取手、中貫、稲吉)3つのうちの一つが残り、浜街道の宿場の跡が偲ばれます。

(稲吉宿)
 中貫宿を後に浜街道(現6号国道)を2km程水戸方面に下っていくと下稲吉入口と言う立て看板があります。
入口手前には、一里塚跡を示す表示板が切通しに立っています。台地の上は果樹園(ぶどう、梨)となっていました。

 ここを左折すると旧街道で、川を渡った台地斜面から「稲吉宿」の始まりです。下稲吉十字路には、浜街道時代の道標が、電柱の陰にひっそりと建っていました。十字路を過ぎると稲吉宿の本格的な佇まいとなり、家の生垣が道に直角の方向に見事な家々が連なっています。生垣は防火樹の役割であろう。

 右手に千代田町(現かすみがうら市)指定文化財・「本陣坂本家」があります。水戸街道中で現存する3つの本陣の一つです。その隣には、水戸街道中に唯一残る「旅籠・皆川屋の木村家(県指定文化財)」があります。いずれも江戸時代の建物としての貫禄を示しています。

 本陣は、大名や幕府の公用人が休泊に用いたところです。本陣の屋敷は、一般の屋敷より一段高く、建物は本陣作りと称して門、玄関、上段の間を設けてあります。玄関屋根の上部には、領主本堂氏の定紋「笹りんどう」が付けられています。稲吉宿には大きな家が多く、坂本家、郵便局隣の畠山家、黒板塀の太田医院、香取神社前の宮本家など立派な家屋敷が残っています。
 稲吉宿北縁の香取神社まで800m程の宿場が続きます。左手の「香取神社」には欅の巨木に囲まれた長い参道が今も残ります。

 香取神社の前、街道右手角には道標があります。「清水、中貫、真鍋ヲ経テ土浦町ニ至ル」「土田、市川ヲ経テ石岡町ニ至ル」と書かれています。道標の路地を奥に入っていくと馬頭観音が祀られていました。

 坂を下って稲吉宿と別れ、川を渡り今度は坂道を台地上へ上っていくと左手にかすみがうら市千代田庁舎があります。その右手の高台に大正元年の「馬頭観世音菩薩と石仏」がありました。これも、旧道の名残でしょう。

(上土田・下土田~大川~恋瀬橋へ) 
 上土田集落には門構えの立派な家が続きます。街道左手の飯沼家の長屋門は驚くほど立派な構えでした。
しばらく行くと信号手前の左手に落ち着きのあるしっとりとした寺は「観音寺」です。境内には、県指定文化財で鎌倉末期作と伝わる「不動明王」の堂があります。

 交差点左手前角には「双体道祖神」が生垣の中に微笑ましい姿を見せています。さらに進むと廃寺跡と思われる堂と石仏群がありました。千代田石岡インターチェンジの橋桁の下をくぐると左手高台に県指定史跡「千代田の一里塚」がありました。

 市川集落の立派な長屋門を見ながら恋瀬川に架かる「恋瀬橋」(昭和6年に架けられた旧橋の一部が保存展示され道の駅的な休憩所となっていた)に到着しました。
国道6号線の新恋瀬橋を渡れば、向かいの台地は石岡の市街地です。   

    
稲吉宿本陣・坂本家 大欅と長い参道の香取神社 上土田の見事な長屋門  
                                                   (堀野正勝 記)
                                                                    





 
          「歴史のみちを歩こう」  第11回       (第112回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その6・府中(石岡)宿~堅倉(片倉)宿へ) -

 旧水戸街道のその6は、茨城県内10番目の宿場町・府中(石岡)宿~竹原宿~堅倉(片倉)宿にかけてのルート概要を記します。府中(石岡)宿は、常陸の國の国府が置かれていた歴史的遺跡や伝統的建築群等が水戸街道沿いあるいはその周辺に残ります。府中(石岡)宿を一歩離れ旧道を進むと一里塚や亀甲模様の白壁の蔵等が目に飛び込んできます。

(府中(石岡)宿)
 恋瀬橋を渡って暫く行くと、6号線を右に分け左に入っていくルート(中町通り、国道355、浜街道)が旧水戸街道です。
すぐに左手に日天宮(太陽、月、星を信仰する「府中三光宮」の一つ)があります。その先右(東側)奥には、造り酒屋・府中誉、その隣に富田北向観音堂、平福寺があります。府中誉は安政元(1854)年の創業で主屋等7棟が文化庁登録文化財で、「昭和4年の石岡大火」も免れた貴重な建物です。街道(中町通り)をさらに北へ進むと左手に丁子屋(江戸末期の建物、「まち蔵藍」)が見えてきます。念のため、明治17(1884)年の迅速図、大正12(1923)年の地形図等を確認しましたが、今の地図と町並みは変わっていません。

 石岡の町並みで忘れてならないものに、昭和4(1929)年の石岡大火後の昭5(1930)年頃建築の看板建築があります。久松商店、十七屋履物店,すがや化粧品店などの看板建築が異彩を放っています。いずれも文化庁登録文化財となっています。

 街道を外れて、左(西側)に入り込むと、台地の縁には「常陸国総社宮」があります。総社宮は、天平年間(729~749)に創建されたと言われています。当時、総社は全国のうち六国府(常陸、武蔵、甲斐、駿河、長門、対馬)が選ばれ、各国内の神社の総括管理することなどを目的に創建されたと考えられています。例年9月15日前後に行われる「石岡のまつり」は、関東三大祭り(石岡、川越、佐原)の一つに数えられる歴史ある例大祭です。石岡の町があふれんばかりの熱気に包まれ、エネルギーで包まれます。「石岡のおまつり」は是非一度は尋ねてみたいイベントですネ。

(府中(石岡)宿~竹原宿~堅倉(片倉)宿へ)
 常磐線の跨線橋を渡ると、間もなく「石岡の一里塚」にさしかかります。両側に塚は残りますが、台風による倒木などで榎は新しくなっていました。

 しばらく行くと行里(なめり)川の落ち着いた集落になります。左手には、不動明王座像などを安置した不動堂や、立派な長屋門が見られます。
 竹原宿手前右側には、石仏群が、また右手台地上には、竹原神社があり、この先からが竹原宿です。竹原宿にも、立派な長屋門と蔵に漆喰のなまこ壁が見られます。

 街道左手の大曲バス停付近から堅倉(片倉)宿手前まで、延々と桜並木が続きます。春はさぞかし見事だろうと思います。この辺りは歩道も広く、景色も田園風景が広がり歩きやすい道です。堅倉三叉路で6号線を右に分け、斜め左に入っていくのが旧道です。間もなくして、T字路があり、左手の道は岩間道です。道が大きく右に曲がると、右手の建物二階に漆喰細工で「一本槍酒店」と書かれた建物が見えてきました(修復中でした)。更にその先街道左手には「加藤殿」と呼ばれた屋敷跡があり「復旧門の由来」と書かれた記念碑が立っています。その隣にも立派な門構えの家がありました。堅倉宿には脇本陣はありましたが、本陣は置かれてなかったようです。この辺りは、江戸時代を切り取ったような情緒があります。
 やがて集落は途切れ、田園風景が広がり巴川(巴橋)になります。
石岡の街並み・異彩を放つ看板建築 常陸国総社宮 街道の両側に残る「石岡の一里塚」  
(堀野 正勝記)




 
          「歴史のみちを歩こう」  第12回       (第113回)
          -近世(江戸時代)のみち「水戸街道」(その7・堅倉(片倉)宿~長岡宿へ) -

 旧水戸街道のその7は、茨城県内12番目の宿場町・堅倉(片倉)宿~小幡宿~長岡宿にかけてのルート概要を記します。巴橋で巴川を渡り小幡宿を経て長岡宿を目指します。旧水戸街道には、日本橋と水戸を除くと19宿が置かれました。長岡宿は、最後の19宿目にあたります。道筋の集落には、奥に深い同一敷地内に3~4軒の家が道に直角に縦一列に並んでいるのを多く見かけます。また、亀甲模様の白い壁の蔵も多く見かけます。路傍に散見される女人講の子安信仰の石仏とともにこの地方の特徴です。

(堅倉(片倉)宿~小幡宿)
 堅倉(片倉)宿を後に、坂を下り巴川を渡ると右手台地上に小岩戸石船神社があります。社殿には石段を登らないと行けません。創建は永正元(1504)年で、境内には平成24(2012)年10月まで、樹齢500年を越す大欅があったことを示す記念碑がありました。小岩戸の集落には、二十三夜塔や双体道祖神、茅葺屋根の家などが有ります。
 小岩戸交差点で6号線を斜めに横切り再び旧道へ入ると西郷地の集落です。西郷地の集落に入ると、石仏群、庚申塔、二十三夜塔、道祖神などが次々と現れます。また、この地方独特の亀甲模様の白壁の蔵やなまこ壁の蔵が多く見られます。どうやらこの地方には、漆喰細工の模様に凝る風習があるようです。また、路傍には子安観音像も見られます。

 西郷地を過ぎ小さな低地(谷底平野)を越え、対岸の台地へ上ると小幡宿です。小幡宿の中頃左手に愛宕神社があります。見事な竹林の参道を進むと、石段下右手に芭蕉句碑がありました。「蝶の飛ぶ ば可利野中の 日陰加那 芭蕉」と刻まれています。愛宕神社は火伏の神です。大きな道を横切ると左手に水戸藩が宿としていたという法円寺と言う大きなお寺がありました。小幡宿にはお寺のような、御殿のような豪邸が並びます。

(小幡宿~長岡宿へ)
 小幡宿のはずれに郵便局があります。その先の十字路(右角上に石仏群あり)を東へしばらく進むと高速道路(東関東自動車道)を越えた先に小幡城址がありました。

 旧道に戻り寛政川を渡り、台地を上がり小幡の信号で6号線と合流し北東方向へ向かうと、茨城東高校信号手前左側に千貫桜記念碑(水戸光圀が愛でた「千貫の価値」があるという桜があった)と光圀公の歌碑があります。

 国道6号線を左に分けしばらく進むと奥谷の集落となります。集落中頃には、御霊神社があります。道路に平行な長い参道を歩くと本殿があります。旧道は下り坂になっており、下の方に見えます。涸沼川の低地帯に茨城町役場、郵便局、消防署、図書館などの公共機関が立地しています。

 涸沼川を高橋で渡り、小鶴の信号で、6号線を右に分けて左斜め前の旧道を行くと小鶴の集落です。集落の中ほど右手に佐久間商店があります。御殿のような建物で、蔵の亀甲模様の白壁、2階の唐破風のようなひさしと飾り窓は大変見事です。その隣にはおもちゃ屋さんの「こどもや」があり、石岡で見た郷愁を誘うロマンチックな看板建築でした。集落には、左手に諏訪神社、右手に稲荷神社、坂を下った左手奥には如意輪寺など歴史を感じる神社仏閣がありました。
 
 涸沼前川の長岡橋を渡り右の旧道を行くと長岡宿です。長岡宿は、高岡神社に続き、茅葺屋根の立派な家屋・茨城県指定文化財「木村家住宅」が宿場町の面影を残しています(IWAニュース2018年5月号、「水戸街道」(その1・長岡宿~水戸宿へ)に記載)。


 




                
西郷地にある亀甲模様 鬱蒼と茂る竹林と杉木立の奥に鎮座する愛宕神社 長岡宿の面影を残す県指定文化財「木村家住宅」   
(堀野 正勝記)



 
          「歴史のみちを歩こう」  第13回       (第114回)
          -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その1・高萩宿~勿来へ) -

 岩城相馬街道は、水戸と仙台を結ぶ街道です。江戸と仙台を結ぶ街道は、総称して古くから「浜街道」と呼ばれていました。「陸前濱街道」というのは明治5年からの呼称です。
 岩城相馬街道は、水戸から仙台までの約61里(約240km)で、枝川(現ひたちなか)、助川(現日立)、安良川(現高萩)、足洗・神岡(現北茨城)、関田(現いわき)など40を数える宿がありました。岩沼で奥州街道に連結しました。

 ◎「浜街道」名称の推移
  江戸時代 「水戸街道(道中)又は江戸街道(道中)」、「岩城相馬街道(道中)」
  明治5年(1872年)  「陸前濱街道」
  明治18年(1885年)  「国道14・15号」別称「宮城県街道」
  大正9年(1920年)  「国道6号」 

 今回からは、水戸街道の続きである「岩城相馬街道」の茨城県(常陸の國)内の主要部分について紐解いてみたいと思います。その1は、高萩市~北茨城市について、歩いてみました。

 高萩市南縁を流れる花貫川南側に位置する「石滝」(高萩工業高校付近)に始まり、安良川、本町、行人塚、高戸、赤浜に至る旧街道を高萩市史・北茨城市史や古地図、旧版地形図、あるいは地元古老からの聞き取りなどによって、現在の地形図上に整理してみました。

 旧道の面影はほとんどなくなっていますが、その歴史を探り、注意深く観察すると旧街道の息吹が感じられるところが各所にあります。是非訪ねてみては如何でしょうか。

(愛宕宿~安良川宿~赤浜へ)
 高萩へ入る南の台地と赤浜へ出る北の大地にはいくつかのルートがあるようです。南の入り口は、日立市十王町伊師の愛宕神社裏の「馬頭観世音塔(寛政12年・1800年)」から辿れます。旧街道と交わる常磐線の「旧陸前濱街道踏切」及びいぶき台団地西側に「小祠」が確認できます。

 花貫川を越し、安良川(高萩)へ入ると、クランク(枡形)状になり、旧国道の名残を示す「茨城県」と刻まれた道路界がありました。また、左折すると江戸時代の町割りを残す(間口の狭い奥行きの深い)民家が数軒あります。

 JR高萩駅は、明治31年(1897年)に開設され、駅前通りができました。高萩は明治期から常磐炭鉱の南部産炭地として栄え、多賀郡の諸官庁が置かれ政治経済の中心地でした。明治42年の旧版地形図には、手綱炭鉱軽便鉄道や高萩炭鉱へ繋がる馬車鉄道が描かれています。本町4丁目のはずれには、石炭運搬業の馬車組合が立てた「馬頭観世音」があります。

 旧街道は、赤浜の願成寺脇をぬけ、赤浜宿から松林(砂丘)脇の道を北進します。赤浜は、長久保赤水の生誕の地であり、松林の中には、赤水の墓もあります。赤水は、江戸時代の近代地理学者で、日本で初めて経緯線を描いた「日本輿地路程全図(赤水図)」を作成しました。

(足洗宿~神岡宿~勿来へ)
 北茨城市中郷の足洗宿のはずれには馬頭観世音が、また下桜井にも馬頭観世音菩薩と8つの馬力神などが残ります。下桜井周辺には「末の松並」と呼ばれる松並木が昭和初期まで美しい姿を留めていました。

 神岡宿手前には、この地域の旧街道にその姿を唯一留める一里塚(上り車線側の1基)があります。

 北茨城市関本の八坂神社には、いよいよ山越えし、酒井ないし大槻を経て窪田宿(いわき市)への道標(平潟街道の分岐を示す)や道祖神などが見られます。


 
     
愛宕神社裏の地蔵尊
(日立市十王町伊師)
長久保赤水生誕地の碑
(高萩市赤浜) 
  街道(現国道6号)脇に残る
「神岡の一里塚」
(北茨城市神岡)
(堀野 正勝記)



 
          「歴史のみちを歩こう」  第14回       (第115回)
          -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その2・水戸宿~佐和宿へ) -

 岩城相馬街道の第2回目は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち水戸宿、枝川宿を中心とする起点周辺を紹介しましょう。江戸と仙台を結ぶ街道は、総称して古くから「浜街道」と呼ばれ奥州街道の脇往還として発達してきました。

 江戸時代には、江戸から水戸までを水戸街道、その先の奥州街道と合流する岩沼までを「磐城相馬街道」と称し、両者を合わせて「浜街道」とも呼んでいます。

(水戸宿~枝川宿へ)
 水戸城は、佐竹義宣が関が原の戦いで西軍に味方したため徳川家康によって出羽国秋田に転封された後、慶長14年(1609)家康の11男頼房を水戸城主としました。これが徳川御三家のひとつ水戸藩の始まりです。頼房は水戸城を中心に五重の堀をめぐらせ、西方に武家屋敷を、東方低湿地を埋め立て、大規模な町人町を築きました。西方を上市、東方の町人町を下市と呼びました。

 街道の起点は、下町の中心部本町四丁目角にある茨城県信用組合水戸支店交差点付近で、信金筋向い角に標柱(陸前浜街道起点)があります。ここから市内を抜けて那珂川を越えるまで、数か所に曲尺手(カネノテあるいはカギノテと呼ぶ)が設けられ、現在も痕跡のクランクが残っています。起点から東に向かうと、本五丁目、本七丁目などの標柱が見られ、水戸本町郵便局前には「曲尺手町」と刻まれた標柱がありました。道は桜川とぶつかり堤防沿いに右に折れ鹿島臨海鉄道の高架下を抜け左折し、桜川、JR常磐線を越し新町(城東地区)へと入ります。二つ目の曲尺手を曲がったところに「秋葉神社」と道筋に「旧町名細谷本郷町」の標柱がありました。突き当りの堤には「新舟渡跡」の立派な石標(記念碑)が立っています。土手を登ると那珂川です。川の対岸に見える集落が枝川宿です。

(枝川宿)
 かつて渡船で渡った先が枝川宿(ひたちなか市)で、鳴門川が那珂川に流れ込むあたりに枝川宿側の渡し場があったもの思われます。この辺りは。鳴門川だけではなく、かつては宿場周辺の水田地帯には細流が枝葉のように張り巡らされていたことから「枝川」の地名が付けられたと言われています。
 枝川宿の街並みでひときわ目立つのが、昔ながらの「塩販売所」の看板を掲げた軍司家です。水戸で消費される塩は那珂川から川を上り、ここで陸揚げされたものと思われます。しっとりと落ち着いた集落の中で、宿場町の雰囲気を残す唯一の風景でしょう。

(枝川宿~沢(佐和)宿へ)
 枝川宿の先で国道6号と合流した街道は、現代の国道風景にすっかり染まっています。水戸刑務所の先、田彦南交差点を挟むようにS字状に旧街道の痕跡が残りますが、何の情緒も感じられませんでした。

 付図上には表れていませんが、佐和上宿交差点東角に道標を兼ねた「馬力神」が、また、国道の反対側に立派な内山家屋敷があり、敷地内の道沿いに黒光りした「一里塚の跡」碑が立っていたのが救いでした。佐和は江戸時代には「沢」と書いていました。かつて湧水が沢となり新川を経て真崎浦に注いでいたことに由来すると伝えられています。



     
岩城相馬街道起点
(県信金水戸支店付近)
岩城相馬街道起点標柱   枝川宿の面影を残す
「塩販売店・軍司家」
(堀野 正勝記)




 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第15回       (第116回)
          -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その3・佐和宿~森山宿へ) -

 岩城相馬街道の第3回目は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち大橋(大和田)宿、石名坂宿、森山宿を中心とする日立市南縁の宿場町を紹介しましょう。

(沢(佐和)宿~石神外宿~大橋宿へ)
 沢(佐和)宿から石神外宿を経由して久慈川榊橋たもとにある石神社までは、近世の浜街道と現国道6号が重なるため、旧街道は現代の国道風景にすっかり染まってしまい、何の情緒も感じられない道となっています。

(大橋(大和田)宿)
 久慈川を渡ると日立製作所の町・日立市です。
 日立南太田インターチェンジの先で国道6号から左の旧街道を進み、田中内集落の中を進み国道293号を横切ったあたりの前方には阿武隈山地の南端が立ちはだかるように迫ってきます。

 茂宮川に架かる大橋の手前に大内家の大きな長屋門がありました。門と言うよりは一軒の家の一部をぶち抜いて通用門を設けたといった方がふさわしいかもしれません。隣に鬱蒼と茂る榎の大木があり、その懐には一基の石碑が建っていました。

 大橋で、茂宮川を渡り、曲尺手状の道を進むと大橋(大和田)宿です。日立大和田郵便局辺りから宿場の面影が色濃くなって、米屋、塩屋、笹屋などの立て看板や立派な長屋門を構えた家屋が有りました。白壁ではなく板壁の蔵が多く、塙姓の家が多く見られました。
 国道6号をくぐり、二又路を左に旧道は続きます。ここからが昔の岩城相馬街道最大の難所と言われた石名坂です。かなり急な坂を登りきると「石名坂宿」のバス停がありました。大橋宿と大森宿の間の難所に作られた休憩場所、間の宿であったのでしょう。
 丁字路の左角には、昭和15年建立の西行の歌碑が建っていました。
 「世の人のねざめせよとて千鳥なく 名坂の里のちかきはまべに」

 また、少し行った右手のバス停空き地には「石名坂の榎」と名付けられた若木が大切に植えられていました。72年に一度行われる神事(金砂神社礒出大祭礼)に供される「神聖な木」(神輿の台座用)だそうで、前回は、平成15(2003)年3月に17回目の大祭例が行われました。1,200年余の古よりの実績を物語っています。

石名坂の交差点で国道に合流した後すぐに「旧研入口」信号で右の旧道に入ります。

(森山宿)
 国道と旧道に挟まれた三日月状の一角に「大甕神社」(最近大ヒット映画の「君の名は」にも登場)があります。神代の時代に、この地に陣取っていた悪神退治にまつわる伝説を持つ古社です。街道は、大甕神社の先で国道6号に戻り、森山町に入っていきます。
途中、日輪寺に寄ってみました。真言宗の古刹で江戸時代は隆盛を誇っていましたが、江戸末期の天狗党事件で一切を焼失し、現在の本堂は明治中期の再建によるものでした。

 森山宿は古くから岩城相馬街道の宿駅が置かれていますが、森山三丁目に立派な門構えの旧家を見かけたほか国道沿いの家並みに宿場の面影はほとんど見られません。ただ、国道東側にわずかに旧道が残っており、森山町二丁目交差点の東北角に小さな塚がつくられ、真新しい「一里塚跡」石碑が見られました。


       
大内家の長屋門 「石名坂の榎」  大甕(おおみか)神社拝殿
(堀野 正勝記)

 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第16回       (第117回)
          -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」(その4・大沼宿~孫宿へ) -

 岩城相馬街道の第4回目は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち大沼宿、孫宿を中心とする日立市の常陸多賀付近の宿場町を紹介しましょう。

(大沼宿) 
 森山二丁目の「一里塚跡」石碑(新しく作られたもの)を後に金畑団地入口の先で大沼川を渡ると「自動車学校前」バス停があります。この周辺が大沼宿のあった場所で、ここにも国道6号の東側に沿って細い旧道が残っています。宿場の問屋だったという土地の名士・小泉家がありました。小泉家の墓地に宝暦十三(1763)年という古い延命地蔵があるそうです。

 助川海防城が築かれた頃、大沼の海を見下ろす高台に「異国船御番陣屋」が建設されました。大沼町の南東で、今は海風を受けて一基の風力発電所が建っているその近くに海を向いて陣屋が建っていたようです。海はすぐ近くで、国道245号沿いに望洋台(一里塚ロードパーク)が設けられ、現代の見晴台として太平洋が一望できます。 

(孫 宿)
 金沢三叉路を右に入ると旧道です。小さな橋(桜川)を渡ってすぐの交差点を県道61号が横切って河原子港に向かいます。桜川が注ぐ浜辺の断崖の小島(今は陸化)が烏帽子岩です。周囲をフェンスで囲われ中に入れませんが、中腹に津の宮(神社)が鎮座しています。

 江戸時代、この神社から眺める漁船の帰港風景は「津の宮帰帆」として、河原子八景の一つに選定されました。今は、港、砂浜、史跡、風光を備えた河原子海水浴場として環境庁選定の「海水浴場百選」の一つとなっています。

 県道を戻り、旧道の香り漂う商店街を進むと「よかっぺ通り」と呼ばれる広い駅前通りに出ます。突き当りは、常陸多賀駅で、駅前交番脇に大きな「下孫停車場記念碑」が建っていました。かつて、ここに西行の歌碑も建てられていたようですが、近年多賀市民プラザに移されました。

 日立市大久保町二丁目の鹿島神社には、樹齢推定550年と言われる「駒つなぎのイチョウ」があります。駒つなぎのイチョウは、坂上田村麻呂が奥州蝦夷征伐の折、鹿島神社に戦勝を祈願し、その際、この大イチョウに駒をつないだという伝説から名付けられました。

 旧道に戻り、多賀郵便局横の共同墓地を通り過ぎ緩やかな下り坂の向こうに大きな榎が見えてきます。いかにも一里塚風の木立です。左手には大谷石塀、右手には黒塀を廻らせた立派な家が立ち並んでいます。この辺りが孫宿の中心部でしょうか。

 道は小川(桜橋)を越えて緩やかに左へ曲がって直線部に係る辺り左手に馬力神や馬頭観音を配した相馬武士の供養碑「相馬碑」が建っていました。

 桜川町3丁目東交差点で国道6号を渡り真っ直ぐ進み、鮎川町6丁目で県道37号(梅林通り)を左折し、およそ1km進むと左の山の手に「諏訪神社」が、その先には茨城県指定文化財で江戸時代中期(18世紀前期)の建築物と推定される茨城県を代表する曲家茅葺屋根の「小野家住宅」があります。是非一度訪ねてみてください。

 旧道まで戻り左折して鮎川三叉路で国道6号と合流し、鮎川橋を渡れば成沢町です。

  
       
鹿島神社と駒つなぎのイチョウ  馬力神や馬頭観音を配した
相馬碑
曲家茅葺屋根の小野家住宅
(堀野 正勝記)



 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第17回       (第118回)
          -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その5・助川宿(日立) -

 岩城相馬街道の第5回目は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち助川宿(現在の日立市中心部)とその周辺の様子を紹介しましょう。日立は、日立製作所が軍需品を生産していたこともあり、第二次大戦で町は破壊されたため、市内には旧家、町家など、宿場の面影はほとんど感じられません。

 しかし、江戸末期には先進諸外国の侵略に備えた海防城跡や、遠見番所や台場跡などの痕跡が散見されます。
 ところで、企業名「日立」は旧国名の「常陸」からとったもので、それを市名にしたと思っていませんか?実は、「日立」の名の由来は、水戸黄門徳川光圀公がこの地方を訪れ「日の立ち上るところ領内一」と言われたという故事に由来すると言われています。一方「常陸」の名の由来は、常陸風土記によれば「陸続きの道」⇒「ひたみち」⇒「ひたち」・「常陸」となったと言われています。

 今一つ、企業名と市名が一緒のため、「日立病院」「日立体育館」などと言う場合、その施設が企業立なのか、市立なのか区別がつかないという紛らわしさもあります。そのため、この地方では「日立製作所」の略称を「日製(にっせい)」と呼ぶそうです。地図を眺めているとそういった現象が見えてきますヨ。

 (助川宿)
 この宿場町で、唯一の史跡と言えるものは国道沿い助川小学校の裏手にある「助川海防城址」でしょう。学校正門に大手門跡碑があります。水戸藩第九代藩主徳川斉昭は、天保7年(1836)、この地に城郭を築かせて異国船の無断侵入に備えました。大名の居住する城を築くわけにはいかず、海防城と言う新しい種類の城を考えたわけです。

 この助川海防城は、幕末の日本で海防のためだけに築かれた唯一の城と言えます。その配下には常陸国の海岸沿いに数多くの海防施設がつくられています。前回紹介した大沼の「異国船御番陣屋」もその一つです。また、日立市内には、友部、川尻、初崎(会瀬)、河原子、水木、大沼、久慈の七か所に海防施設がつくられました。

 本図の中には、初崎(会瀬)台場がありました。台場は会瀬漁港の北側の山の上にあったと伝えられています。元の津神社があった場所(現在は新しい神社が海岸沿いにある)です。

 友部と大沼の二つの陣屋を除く五つの施設は、みな共通点があります。一点目は、全て高台(標高25m程度の台地上)にあって見晴らしが良いこと。二点目はどこも港の近くにある事です。これは物資補給を求めて異国船が港に来ることを想定し、素早く発見し、攻撃しやすかったことが考えられます。

 このように、この日立にも異国船が来ていたと思われること、海防のために立てられた日本に一つだけの城が日立にあったことには、驚嘆しますネ。

 また、その向かいにある日立二高の裏門脇には助川一里塚碑がありました。正門を入ったところの案内板に同校歴史部による詳しい説明があります。
 最後に、助川は日立企業城下町の中心地ですので、日立創業の立役者二人の顕彰碑を紹介しましょう。明治38年(1905)、山口県萩市出身の実業家、久原房之助が赤沢銅山を買い取り日立鉱山を創業したこと、そして翌年、日立鉱山の工事課長として入社した小平浪平が国産初の5馬力のモーターを完成させ日立製作所を創業したことでしょう。この二人の顕彰碑が神峰公園にありますので、公園を訪れた時には記念碑を見ていくのも良いでしょう。


    

   
    
   
助川海防城址(本丸跡)と遠見番所跡   神峰神社と馬頭観世音・道祖神
(堀野 正勝記)



 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第18回       (第119回)
       -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その6・田尻~小木津宿~川尻~十王坂へ-

 岩城相馬街道の第6回目は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち小木津(奥津)宿(現在の日立市小木津町)とその周辺(田尻、川尻)の様子を紹介しましょう。

(田尻宿)
 神峰(かみね)神社の先の山下町十字路で左の旧道に入ります。滑川町の美しい住宅街を通り過ぎ、滑川丘で県道10号線(日立いわき線)に合流します。田尻町2丁目ローソン手前に自然石の馬頭観世音があります。左手は阿武隈山地の東端にあたる崖で、その裾を縫うように県道が緩やかな坂を繰り返しています。

 田尻町2丁目交差点辺りが旧宿場町でしょうか。特に案内板や標識は見当たりませんが、中之郷酒塩店の門と白壁土蔵は問屋場でも務めた土地の名主の風格を感じさせます。向かいの家も長い板塀を廻らせた立派な屋敷です。

 田尻は江戸時代の古地図には宿場として記載されていませんが、古代9世紀には田尻駅家がもうけられたと伝わっています。江戸時代は助川~小木津間の合いの宿であったのかも知れません。

(小木津(奥津)宿)
 県道が小木津駅手前で左にカーブしたところの小木津町交差点を右に折れて旧道は小木津宿に入っていきます。「小木津宿」と言うバス停があり、確かな宿場町の手ごたえを感じさせます。旧日高郵便局辺りを中心に白壁の土蔵にかわって板塀の蔵が目に付く立派な家並みが続きます。旧郵便局西隣の塙家は海鼠壁の重厚な門構えの寄棟造の豪壮な屋敷です。

 旧郵便局の正面の道の奥まった森閑とした森の中に澳津説(おくつせ)神社が鎮座しています。「おくつ」は「小木津」の古名でしょう。神社は天文13年(1543年)の創建と言われています。

 旧道は旧郵便局前で二股に分かれる左の道を行き、国道を跨ぎ、小道をさらに小木津浜へと進みます。街道が海に近づくにつれ、街並みに開放感がみなぎってきます。やっと街道らしくなってきました。海が見える最初の浜が小木津浜です。

 町はずれの東連津橋からの眺めが大変素晴らしく、断崖にしっかり根を下ろした松の枝が旅情をそそります。街道の左手崖下に墓地がありその奥に小さな最上神社の祠があります。その背後の崖面にはほとんど摩耗した摩崖仏の痕跡が残っていました。

(川尻)
 川尻も田尻と同様、江戸時代の地図には宿場として記載されていません。街道筋には古い商家の家並みが見られますが、宿場と確認するものは見当たりません。街道は川尻町交差点で国道6号を横切り、川尻町4丁目の静かな住宅街を通り抜けていきます。

 日立電線の大きな工場に突き当たり、右に折れて十王川に沿って北上します(本来の旧街道は工場敷地内を縦断?)。途中に「十王前横穴」の史跡案内表示が立っていました。古墳跡であろう。川沿いの道は桜並木のきれいな散歩道をなしていました。街道は川を渡り十王坂(曲尺手(かねのて)と切通し)に向って藪の中を進みます。 
  
自然石の馬頭観世音碑         ↑
  小木津(奥津)宿に鎮座する澳津説(おくつせ)神社

 
 東連津橋から最上神社方向を望む       ↑
               川尻の古い商家(ひたち味噌)
(堀野 正勝記)

 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第19回       (第120回)
      -近世(江戸時代)のみち「岩城相馬街道」その7・川尻(十王坂)~愛宕宿~安良川宿へ-

 岩城相馬街道の第7回(最終回)は、水戸から仙台を結ぶ街道のうち愛宕宿(現在の日立市十王町伊師)とその周辺(十王坂、安良川(高萩))の様子を紹介しましょう。岩城相馬街道の主だったところは、本号で一通り終わりました。

【十王坂】
 街道は、十王川を渡り舗装道路を横切ると舗装が途絶えて民家の私道を歩いているような錯覚に陥ります。玄関先をかすめて薄暗い林道の坂を登って行きます。この間1km余りの道は「十王坂越え」として歴史の道百選にも選ばれています。深い藪の中を細い道は曲尺手(かねのて)状になっており、上部は切通しとなっていました。この間僅か100m程は、古道を思わせる野趣あふれる道です。登り口付近にはかつて温泉宿があったが現在は廃屋となっていた。登り切った分岐の古めかしい道標には、川尻方面、伊師町方面などと記されています。この道標の先は、台地上の開けた畑の中を進む農道となっています。歩いていたら伊師町の方からのウオーカーとバッタリ会いました。
 *歴史の道百選:文化庁が日本各地の文化や歴史へ関心を深めてもらうことを目的に、平成8年(1996年)11月選定した歴史街道などです。茨城県では唯一の道で、「陸前浜街道・十王坂越え」として選定されました。

【愛宕宿・伊師町(十王町)】
 二車線のバス通りへ出ると、「伊師町入口」と言うバス停があり、その反対側に一里塚の痕跡がわずかに残っていました。「磐城相馬街道」の名称は、慶長九年(1604年)に徳川家康によって「浜街道」から改称されました(説明板より)。
街道は、左に大きく曲がっていく。この辺りが愛宕宿(伊師町宿)であろう。左手に天正四年(1576年)4月創建の火伏の神として崇敬される古社・愛宕神社があった。神社を清掃中の土地の古老に確認してみた。愛宕神社の存在は、伊師町宿場に変わって愛宕宿と呼ばれた所以であると教えてくれた。民家の街並みは、新しくはあるが長い板塀を廻らせた立派な家並みが印象的でした。

 また、平成30年(2018年)秋には、台地上の神社周辺地域が発掘調査され「長者山官衙(かんが)遺跡及び常陸国海道跡」として国指定遺跡に指定されました。
近くには、白砂清松百選に選ばれたという伊師浜海岸とその南に海鵜の飛来地と日本一利用率の高い国民宿舎として知られる「鵜の岬」があります。岬を眺めながら海鮮丼の昼食を楽しんだ。鵜がいなくても絵になる風景ですネ。
 *日本の白砂清松百選:(社)日本の松の緑を守る会が選定。美しい松原(マツ樹林)を伴った海岸、とりわけ砂浜を一覧にしたものです。茨城県では、鵜の岬海岸(伊師浜海岸)のほか、五浦海岸、村松海岸、大洗海岸の4か所が選定されています。

【安良川(高萩)宿】
 安良川(高萩)宿から国境の勿来の関までは、本シリーズのその1(「歴史のみちを歩こう」(第13回)、IWAニュース2018年12月号)で既に報告されていますので、そちらを参照ください。



十王坂    十王坂を下るウオーカー  愛宕宿(伊師町集落)
(左右切通しの急坂を登る)
 
  
 一里塚跡         国民宿舎「鵜の岬」

(堀野 正勝記)   

 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第20回       (第121回)
      -近世(江戸時代)のみち「日光街道」   栗橋宿~中田宿~古河宿~野木宿へ-

 日光街道は、江戸時代に設けられた五街道の一つで、江戸日本橋(東京都中央区日本橋)を起点とし、日光坊中(栃木県日光市山内(東照宮)に至る街道です。道中には21の宿場が置かれていました。日本橋から宇都宮までは陸羽街道と共通でしたが、日光街道の開通(寛永13年・1636)とともに日光街道と称されるようになりました。茨城県内(下総国)はわずか2宿(中田宿、古河宿)ですが古河宿を中心に道中の要として重要な役割を果たしました。

(栗橋宿) *埼玉県久喜市
 栗橋宿は、利根川の渡し場として賑わい、関東平野北辺に対する警備上の地として関所が設けられた重要な地(後述の八坂神社近くには、関所番士屋敷跡の立て看板も見られます)で、元和二年(1616)栗橋宿となりましたが、古くは源義経の愛妾静御前の終焉の地ともいわれ墓もあります(栗橋駅前)。

 宿場の北縁には、宿の鎮守として八坂神社が祀られています。ユニークなのは、狛犬ならぬ「狛鯉」が狛犬の場所に鎮座していました。多分、水害除けの気持ちが込められているのかもしれません。昭和22年のカスリーン台風で利根川が決壊し、この辺りも大きな被害を受けており、市内の電柱(2m位)には浸水線(赤線)が書かれていました。 

(中田宿)
 坂東太郎と呼ばれる利根川を渡るといよいよ下総国(茨城県古河市)に入ります。江戸時代の中田宿は、現在の利根川橋下の河川敷にあったと言われています。洪水などで何回か移転していますが大正から昭和にかけての堤防改修工事で宿場跡は消滅してしまい、今の中田町界隈からは往時の面影を探すことは困難です。

 街道筋には、鶴峯八幡神社(創建は鎌倉初期)や静御前ゆかりの寺・光了寺などがあり、また中田の松並木(復元)がその面影を忍ばせます。徳川二代将軍が日光参詣の折仮茶屋を置いたことから茶屋新田と言う地名が地図に残っています。
 茶屋新田の松並木が終わると、古河高校グランド端に「原町の一里塚」(江戸から16番目)と近くに「十九夜塔」が見られました。

(古河宿)
 古河宿は平安時代から奥州方面への宿場町として栄え、また、鎌倉時代以降は、古河城の城下町としても賑わっていました。現在の古河宿の街道筋は近代的な街並みに変わってしまい、往時の面影は全く見られませんが、一歩裏道に入ると落ち着いた静かな街並みを見ることができます。

 台町の三叉路を右に曲がり、300mほど北上すると左手に「古河城御茶屋口碑」があります。ここを左手へ曲がり、右に左にと曲がっていくと、突然、時代劇の世界を思わせる、古河藩家老「鷹見泉石記念館外塀」が現れました。寛永十年(1633)に建てられた高見泉石の隠居所です。近くには「肴町」と呼ばれる一角があり、諸大名を接待する馳走番所があった昔ながらの面影を残す雰囲気の良い路地がありました。

 本町一丁目の角には「日光道中古河宿道標」があります。そこを左へ入っていくと、旧武家屋敷の面影を残す外塀や、古河城の黒門を残す正定寺が、更に旧街道(横町通)を北上すると古河城赤門を残す本成寺などが有ります。
 野木神社(栃木県)は、仁徳天皇の時代に立てられた創建1600年余を誇る古社で、境内の池沼には、二輪草が白い可憐な花を咲かせていました。やがて野木宿です。

 古河の「まくらがの里花桃ウオーク」の折には、是非訪ねてみてください。

     
  鶴峯八幡神社      原町の一里塚

    
  旧武家屋敷の面影を残す外塀   古河城赤門を残す本成寺
 (堀野 正勝記)   



 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第21回       (第122回)
      -近世(江戸時代)のみち「棚倉街道」   水戸宿(上市、下市)~青柳、枝川~額田宿へ

 棚倉街道は、水戸城下と棚倉城下(福島県棚倉町)を結ぶ街道で、主に棚倉藩の参勤交代に利用されていました。街道は、古代の官道として古く(9世紀)から常陸国内での主要幹線の一つとして栄え、戦国時代には常陸の大名だった佐竹氏が南奥羽進出の軍事道としても利用しました。

 江戸時代に入ると街道は、奥州街道と棚倉城下、太田、水戸城下を結び、一部奥州の大名の参勤交代に利用されるなど水戸藩の主要街道として整備されました。

 街道の起点である棚倉城下は、寛永二年(1625)に丹羽長重が棚倉城を築城して以来、城下町として発展しました(当初は100万石余の大大名)。棚倉城下は、城主が関ケ原で西軍に与力したこともあり4万石の小大名に格下げされたことや、幕末の戊辰戦争の影響で戦火にまみれ大きな被害を受けています。

  しかし、県内の棚倉街道沿いには、延喜式内社など由緒ある神社や古駅の名残がある地名、近世に整備された桜並木、一里塚、道標などが、現在でも残っていますので、数回に分けて紹介しましょう。

(水戸宿・下市~枝川~田彦~寄居~横堀~高岡~坂下~額田宿) *下町街道
 棚倉街道は、上町街道と下町街道の2通りありました。江戸時代から青柳渡しと枝川渡しを渡る2つのルートです。下町ルートの優位性は、枝川からの海路が便利で多くの荷物が運べたからです。塙の徳川将軍家の天領や、水戸副将軍家の江戸住まいに必要な大量の食べ物や木材は那珂川より海路江戸へ入りました。

 下町街道は、水戸城から那珂川を枝川へ渡り、田彦で、磐城相馬街道に別れを告げ、寄居、堤、横堀、高岡、坂下を経て額田宿に至ります。この下町街道が、棚倉街道の本街道です。
水戸宿の下市から枝川渡し(枝川宿)までは、水戸街道の項(IWAニュース107号)及び常陸相馬街道の項(IWAニュース115号)を参照ください。

 横堀には、発汗地蔵尊と呼ばれる約300年前に創建された地蔵尊があります。安産守護の地蔵尊で、子安地蔵、延命地蔵などとも呼ばれています。

 額田宿の入口には、浄土真宗の阿弥陀寺があります。建保四年(1214)、親鸞聖人によってこの地に念仏道場が開かれました。その後、上人は約10年滞在し、布教に努めました。
寺の後背地には、那珂市指定文化財(史跡)で鎌倉時代・建長年間(1249~1256)に佐竹氏によって築城された額田城址があり、壕、土塁など戦国時代の遺構をよく残しています。
 また、宿の北縁には愛宕神社が鎮座します。

(水戸宿・上市~菅谷宿~額田宿) *上町街道
 青柳渡しは上町街道と言い、水戸城下から西へ向かい、那珂川を青柳に渡り、五台(後台)、菅谷宿を通り、杉、高岡、坂下へと至り下道街道(枝川ルート、前述)と合流します。

 青柳集落(青柳宿)の南縁の那珂川土手には立派な「青柳の渡し跡」の石碑が建っており、西側には、つい最近廃止となった「万代橋(よろづよばし)」が架かっていました。また、集落内には、鹿島・香取神社が鎮座し、水戸八景の一つ「青柳夜雨」の碑がありました。

 五台を過ぎ、水郡線の太田街道踏切を渡れば菅谷宿です。菅谷宿は下宿・中宿・上宿からなり香取神社、慶乗院正覚寺、不動院大聖寺などの旧跡が宿場町の面影を残しています。

 近くには、那珂市戸崎にあった曲り屋・茅葺屋根の古民家を解体保存した一の関溜池親水公園などが整備されています。親水公園は県内有数の白鳥の飛来地となっており、是非一度は訪ねてみたいところです。


  額田宿に残る阿弥陀寺  青柳の渡し跡と万代橋(よろずよばし)

      
     菅谷宿に残る不動院大聖寺 
                   曲り屋茅葺屋根の古民家と白鳥 (一の関溜
)
 
 (堀野 正勝記)   

 
 
          「歴史のみちを歩こう」  第22回       (第123回)
      -近世(江戸時代)のみち「棚倉街道その2」   額田宿 ~ 太田宿 ~ 町屋宿へ-

(額田宿 ~ 太田宿へ)
 棚倉街道は、額田宿手前の坂下で、上町道(青柳渡し)と下町道(枝川渡し)が合流し、額田宿へと入ります。
幕末、吉田松陰は浄鑑院常福寺(跡は那珂二中、幕末に瓜連へ)にも立ち寄っており、下町道を通ったと推測されています。

 久慈川の舟渡は、集落名として現存していますが、国道のバイパスの開通に伴い幸久大橋が完成したことにより、旧国道の幸久橋は通行止めとなりました。久慈川の舟渡には、舟渡の集落と舟渡跡の説明板がわずかにその面影を残しています。

(太田宿とその周辺)
 佐竹氏の城下町であった常陸太田中心部には、中世城郭跡が残っています。周辺には西山荘など、水戸徳川家ゆかりの史跡もあります。常陸太田駅の北東1.5kmの中城町一帯が太田城址です。太田城(舞鶴城)は、平安末期に太田氏が築いた舘に始まります。この地は、陸奥へと通じる重要な地点であり、里川(久慈川の支流)一帯に、水田が早くから開けたところでもあります。

 太田城が本格的な中世城郭として整備されはじめたのは、鯨ケ岡と呼ばれる舌状台地に、南北朝時代に佐竹貞義が常陸守護となって以降と考えられます。佐竹氏20代義宣(よしのぶ)の時代には、豊臣秀吉から54万石を安堵され、全国7位の大大名となりました。

 関ケ原の戦いの際、徳川家康の出陣要請に従わず、1602(慶長7)年、秋田に国替えとなり、その後、常陸太田は水戸藩領となり、太田城は廃城となりました。

 太田城址の主郭は、舞鶴城跡の石碑がある太田小学校校庭にあたります。北郭跡の太田一高校内には、旧茨城県立太田中学校講堂(国重文)が、また、南郭跡の若宮八幡宮には、樹齢推定600年を超す大ケヤキが残っています。

 太田城址の西方約2kmには、西山荘(県史跡、水戸光圀の隠居所)が、北方約1.5kmには、正宗寺(佐竹一族の宝篋印塔が、「大日本史」を編纂した助さんこと笹々(さっさ)宗淳(むねきよ)の墓もある)が、さらに、常陸太田駅から西方に県道61号線沿い約1.5kmには、佐竹寺(佐竹氏代々の祈願所、茅葺の本堂は国重文)があります。

 常陸太田駅から国道349号を約3km北上し松崎の集落から北西の瑞竜山方向へ進むと、国見山の南麓には、6haに及ぶ広大な徳川光圀公をはじめとする水戸徳川家の瑞龍山墓所(現在は、非公開)があります。更に松崎から北方600mほどの旧道沿いには、「延喜式」に名を連ねる薩(さ)都(と)神社があります。

(商家と土蔵が残る太田宿)
 常陸太田の街並みは、宗教的機能に加え城下町防衛のために、台地の縁に多くの寺社を建立しているのも特徴の一つです。そして、常陸太田は、佐竹氏の国替え、廃城後も、水戸藩領内の重要な商業都市として発展し、タバコ、綿花、コンニャク、紙、紅花、茶などの集散地として水戸をはじめ、江戸、その他各地へと輸送しました。また、先の大戦による戦火による被害を免れたため、商家や土蔵を含む、江戸末期から明治、大正、昭和の街並みが残されています。

 ぜひ周辺の貴重な史跡に加え、鯨ケ岡の街道筋の歴史ある街並みを堪能してみては如何ですか。


        
   
    太田城址の一角(南郭)に座す
        「若宮八幡宮」 
  
佐竹寺
(茅葺屋根の本堂は国重文)
     
        瑞龍山の水戸徳川家墓所

 (堀野 正勝記)   




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